四方山地蔵の学び 教えられる勉強は、本当の意味での勉強とはいえない。こう思っている方はいらっしゃるのではないでしょうか。 かくいう僕も基本的には同感です。基本的にと言うのは、初歩の段階では教えられての学びが多く、ある種のそういった殻が壊れたときに実は到達できる境地だと思っているからです。 だから、そこへ到達することなく学ぶことの楽しさを知らずにいる方も多数いるのだろうなと思われます。 僕の場合は大学終盤で当初から就職する気がなく大学院へ進もうと思っていたので、それなりに勉強していたつもりでした。それなりに。 しかし、現実は甘くなかった。実際に進学して、自分の無知を嫌と言うほど心底思い知らされたのです。教授からの質問にほぼ答えられない。 考えても思いだそうにもストックがない。数瞬の間。すかさず「俺は地蔵と授業してるんじゃない」と地蔵扱い。 分かっていると思って質問をしていないというのだ。教授は、知らない自分に気づくこと、高い月謝を払ってきているのだし、分かっているならこなくていい、分かっていないから来ているのだと言います。 確かにその通りなのですが、分からないと言うのは不勉強を露呈するようで心苦しくもあり恥ずかしくもあり言いにくい。しかし、とりあえず、それに従って、分からないとはっきり言って、きちんと聞いて、自らも勉強することに。 すると妙なプライドも何もなくなり、何を聞かれるのか?という緊張感と、不安感、それに加えて、期待感が増しました。 ここでようやっと高い次元での勉強というもへ手を掛けることができたように今にして思います。実はこれ、僕の中ではかなりのエポックメイキング。 地蔵であっても、大人になってからでも成長できると知ることができたものでした。 問題は「君はあまりにも堂々と分からないと言いすぎる!」と笑われるようになったことでしょうか。 前のページへ戻る | ||