四方山


読書の勘違い
国語力の低下、思考力の低下、言葉やものを知らない、といったことは、読書をすると改善されると短絡的に考えている方はいるのではないかと思う。

実際に国語ができない子を持つ親が読書をさせてくれといってきたことはあります。僕の持論としては、長い目で見れば効果はあるとは思いますが即効性はない、ですから、算数のような即効性があるるものとは違うということを理解してもらっていないといわざるを得ません。

国語の点を取ることと読書を楽しみとしてするのは訳が違いますので、読み方が違うでしょう。

そういった勘違いはあって、読書さえすれば解決されると思われていることは多いように思います(もちろん解決されることもあるでしょうが)。

本のない時代に生きた人は人から情報を得るか、自らの手で解決していった。つまり、自分が動くことで進むべき道を作るか、歩いた場所が道となりほかの人が続くかしたわけです。

本など読まずとも真理には到達するわけです。本は便利です。いつでも読めます。古代の人々の息づかいを今に感じることも可能です。だから今ここである必要がなくなった。いつでもいいわけだから。

そうして本から離れると、読書離れが叫ばれて読書をすることが目的となってしまう。楽しみのための手段、学問するための手段、教養を増やす手段、そういった読書は一つの手段であることが抜け落ちてしまう。

読書さえすればいい、という。そうではなくて、何らかの目的がなくて読んでいたら楽しくもなければ勉強にもならない。何のために読むのか。

僕は本を読まずとも情報過多のこの時代ですから、取捨選択すれば読書同様の効果は別のものでも得られるようになってくると思います。ただし、それも何らかの思いがあってのこと。

本を読んだから頭が良くなったり、偉くなるなんてことはないのであって、考えるためのツールの一つとして使えばいいのだと思います。その辺りの考え違いがある限り、中身の全くない「読書」絶対主義になってしまうのではないでしょうか。

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