四方山へぼい国語の先生 国語が特筆するほど得意だったということはなく、論理的思考力を発揮して問題を解いていたわけでもありませんでした。そんな僕が国語を教えていたのだからおもしろい。 国語の教員免許をもっているわけではないので、指導方法は亜流なのでしょうが、今まで僕が教わってきたときの消化不良感を解消したいとは思っていました。 国語というのはおもしろい教科で、大まかにいってしまうと単元は少ない。細分化はいくらでもできますが、塾としては不要だったりしますので、その少ない単元を高校までひたすら繰り返す。 物語小説文、説明論説文、随筆、古典、文法、文学史、漢字。学年によってはさらに減ってしまう。 大まかにいったらこれくらい。これをひたすら繰り返しているのに、国語で全員が高得点を取れないというのは、英語よりもレベルが高い次元で話をしているからかもしれませんが、母国語としては寂しい。 どこに問題があるのか、一応教える側として考えねばならないテーマです。そもそも国語は学校の授業時間中に問題演習なんてないですから、問題を解くスキルには欠けます。先生の趣味を聞いているようなものですから。国語の本筋が問題を解くことにないから、なのでしょうが、正確な理解のために論理思考力を養っているわけでもないので、感性を磨いているとしかいいようがない。しかしながら、感性を磨くことの是非はここではひとまずおいておきましょう。 国語の問題を解くということに特化して考えてみますと、一つには教える側がヘボだから。ということもあるでしょう。国語の学習指導要領を読んだことがないので知りませんが、文章を味わって、正確な理解をすることがおそらく主眼となってくるのではないかとは思われます。解くことが主眼ではないはず。だからしょうがないといえばしょうがない。 さらに、国語に正解なんてあるのかということで、先生によって採点基準が違ったりそもそも考え方が違ったりということもあり得る。いってみれば先生の感性次第。 詩の問題で、作者はここでは何をいいたいか、という一連の問いを作者が説いたら0点だったという笑い話があるほどに、正解が見えにくい。作者が答えているのだから100点のはずなんですが。問題作成者の論理に反しているから0点。それくらい人の感性は様々で、論理との乖離も生まれる。 感性だけの先生は指導も感性。ここからが問題の箇所で、感性で解ける子もいます。読んだ瞬間、「あぁ、これかな」と分かってしまう子はよい。分からない子への指導が問題。 この問いの答えが分かりません、という質問に「本文に書いてあるだろう?」と先生に答えられたことのある子、もしくは答えてしまった先生、僕はそんな先生をヘボな国語の先生と呼んでいます。 それはあなたの感性で読めば分かるのかも知れませんが、難解な文章で感性のレベルを越えていたら、分かりっこない。見つけられないから聞いているのに、見れば分かるという答えは答えになっていない。 うまく泳げない、という子に、泳げば分かるといってるようなもの。だから泳ぎ方が分からないんだって。泳ぐ方法が。 それを教えろといっているんですよ。答えを見つける方法を教えろといっているのに見れば分かる、は指導放棄。 感性で解ける部分はよいのですが、それを越えたならどうしたって論理的思考で解かざるを得ない。そこまでカバーしてくれていますか? 僕は今まで国語の先生にそういう教え方をしてもらったことは、残念ながらないです。だから自分ではそうしようと思っていたわけです。 前のページへ戻る | ||